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例幣使関連の年表 |
例幣使道の宿場 |
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例幣使道はなぜできたの? |
例幣使道を知るには、徳川家康と日光東照宮との関係を知る必要があります。 |
東照宮が作られたのが、日光例幣使道の出来た原因であるからです。 |
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徳川家康と日光東照宮 |
徳川家康が死の直前に遺言を残し、「遺体は駿河(静岡県)久能山に葬るべし。 一周忌を過ぎた後、下野(栃木県)日光山に堂を建て勧請すべし」とある。 |
徳川家康は元和2年(1616年)4月17日に75才の生涯を終えた。 |
二代将軍 秀忠は遺言により、元和3年(1617年)4月に家康の遺骸を日光に改葬、「東照大権現」の神号を受け、日光東照社を創設した。 |
三代将軍 家光は寛永13年(1636年)に、質素な作りの東照社を造替、現在の東照宮となる。 |
また、秀忠の創設した旧東照社社殿は、徳川氏発祥の地、上野国世良田に移し再建した。 |
家康の没後30年を経て、正保2年(1645年)11月、朝廷より「宮号」が送られ東照宮となる。 |
日本史史上、臣下を祭る神社で宮号が授けられたのは、「菅原道真の天満宮」と「徳川家康の東照宮」の二社のみである。 |
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例幣使の派遣 |
朝廷は1646(正保4年)に伊勢神宮への例幣使の派遣を復活させ、又日光東照宮へも例幣使を派遣する事にした。 |
伊勢神宮は「天照大神」を祀る皇室の祖廟である。 |
東照宮は臣下の祖霊であり、ここに同格の例幣使の派遣を受ける事により、幕府と朝廷の立場が対等のものとなった。 |
これにより正保3年(1646)より慶応3年(1867)まで221回、1回も休むことなく例幣使は継続された。 |
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日光への近道 |
例幣使は、京より中山道を通り、軽井沢、高崎を過ぎ、倉賀野で中山道と別れ「玉村・五料・柴・木崎・太田・八木・梁田・天明・犬伏・富田・栃木・合戦場・金崎」の13宿を通り楡木宿で壬生から来た道と合流する。そして鹿沼、今市を通り日光街道に合流し東照宮へと向かった。 |
このうち、倉賀野から楡木までを例幣使道と言う。(現在は例幣使街道と呼ぶのが一般的になっています) |
帰りは江戸に出て、東海道を戻った。 |
例幣使一行は50〜60人程度で、回忌には倍の120人前後となる。 |
4月15日の例祭には将軍、諸大名、旗本も参詣する為、京から、東海道で江戸に出て、日光街道を通るのでは、混雑する為に予定の日に着かないと言う弊害が出てしまうので、中山道を通った。 |
また、高崎から、江戸に出たのでは遠回りになる為、近道が必要になり、例幣使道が作られた。 |
以上が例幣使道のできた概要です。 |
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世良田東照宮(群馬県尾島町)は、徳川家発祥の地で3代将軍家光公が東照宮を建て替えた時に、旧社殿をこの地に移した。 |
ここには金幣や家康ゆかりの品々が展示されています。 |
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佐野東照宮(栃木県佐野市)は家康の御霊が久能山から日光へ遷座の途中で、春日岡山惣宗寺(佐野厄除け大師)に一泊したのを記念し、同寺院境内に建てられたものです。 |