八木節と例幣使道 |
八木節発祥の地、八木宿(栃木県足利市福居町)は日光例幣使道の宿場街として栄えた。 |
宿に8本の松の木があったので八木宿と言われる様になった。 |
宿場には、飯盛茶屋(遊女屋)が多く1855年の記録では、戸数95軒のうち飯盛茶屋が33軒と1/3以上を占めていた。 |
娯楽の無い時代、地元や近隣の若者が遊女屋通いにはしり、田畑は荒れ放題、あげくは家財を売り払う者まででるようになった。 |
この様な状況を見かねた、上渋垂の石井多三郎氏は、若者を遊女屋から呼び戻し、平和な村を取り戻す方法は無いかと考えた。 |
毎日、田畑仕事が終わってから、夜、若者を自宅に呼び、長唄、常磐津、民謡などを教え、輪を広げて行った。 |
これが後に盆踊り唄そして八木節の誕生へとなって行った。 |
多三郎亡き後は、長男の芳平が盆踊りの指導をするようになった。盆踊りは長唄、常磐津、民謡より取り付きやすく盛り上がりを見せた。 |
また隣人の斎藤勘十郎が指導に加わり、歌い手、踊り手、囃子方などの訓練を行い、今も残る「カラ傘踊り」は勘十郎の考案と言われる。 |
このグループの中に、初代堀込源太の渡辺源太郎がいた。 |
堀込源太は美声の持ち主で人気者となった。 |
毎日馬車を引きながら、飼葉桶を叩いて拍子を取り唄っていた。 |
これが今の空き樽をたたく形になったといわれる。 |
源太の歌を遊女が覚え、それを客が覚え、例幣使道沿いに伝え広がったといわれる。 |
特に、テンポが上州人気質とあった為に、急速に広まり八木節は上州が発祥の地ではないかと言われる。 |
八木節の名前の由来だが、それまで盆踊り歌と言われていたものの、初めてのレコードを出す時に盆踊り歌ではなく、何か名前を付けてくださいと言われ、地名の八木を取って八木節と名づけられた。 |
八木節のもととなる歌は、木崎節と言う説がある。 |
木崎宿(群馬県)も、八木宿と同じ飯盛茶屋の多い所で、そこで働く遊女の大半が越後(新潟)から来ていた。 |
抱えの遊女が故郷の唄を歌っていたのが変化して、木崎節になった。 |
八木宿も木崎宿から送られてきた遊女が大半で、そこで唄われた木崎節を堀込源太が独特の節回しに変えたのが八木節と言われるが、他にも口説節説もある。 |
八木宿手前の足利・小泉線交差点脇に堀込薬師寺の宝性寺があり、堀込源太の墓と記念碑がある。 |
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